ゆりかの湯「ロチチペハハ」

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『ゆりかの湯』をふりかえって

もともとこのブログは、家族と友人に
自分の近況をお知らせするために始めました。
ブログ自体の目的がそうなんで、何も特別な意味はありません。
でも、それを始めたころ、世間にはインターネットというものが、
これほどまでに流通していませんでした。
私も自分のパソコンというものがありませんでした。
よくよく考えたら、学生時代自宅にもなかったかもしれないです。

それで始めたのが1枚新聞。
内容はどうってことない自分の近況です。
それを数枚コピーして、遠方の友人に送ったりしていました。
友人の誕生日には、勝手に『○○ちゃんお誕生日記念号』
などと命題をつけたりして。

そのうち、世間にインターネットというものが普及し、
早く楽に書き込める日記やブログが増えてきました。
ゆりかの湯は、1枚新聞から日記へと進化、
ネットでお知り合いになる方も出来たのは意外なことでした。

当時は「正月を 2年連続同じ場所で迎えたことがない」
という落ち着きのない生活をしていましたので、
友人との連絡が途絶えないようにしていた気がします。

そして3年ほど前に南国、鹿児島へやってきまして、ブログを開始。
日記と機能はほとんど同じですが、コメントの書き込みや、
内容の編集は、ブログのほうが使い勝手が良い気がします。

実はブログと平行に、家族内ではローカル版ゆりかの湯というのが
続いております。
ところが今朝、それを見直してみたら、去年は数回しか残っていない。
以前はほぼ毎月実家へ送っていたのに。
今は殆どケータイメールなのですね。
それもやっぱりマンガつきで。

しかし実家へのメールはそれでも減少。
ネタがないというより余裕がない。
年を追うごとに駆け抜ける速さは加速しているなぁと
日々感じます。
ロバペリ

そして今度は家族ネタも新境地に。
ロバネタが登場します。
今まではゲストキャラでしたが、今度からは本命です。
ワタシ オヨメニ ユクノヨー。
なんて今時ではないので、見栄をはって(?)

ワタシ ロバの調教師になります。

といっておこう。
こんな私ですが、皆さん後ともどうぞよろしく。
ゆりか

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国家試験の思い出

もう少しすると、国家試験(通称国試)シーズンです。
獣医師国家試験は2月か3月、1年に一回行われる試験です。
私も獣医学生の(かなり)はしくれでしたので、
この時期になると試験勉強の有様を思い出します。

大学では、6年生になると各研究室もしくは自習室に
「国試部屋」というのが出来ます。
そこで6年生がキリキリカリカリと恐ろしいムードで引きこもるのです。

私は研究室ではなく、自習室組でした。
国試勉強には様々な法則(ジンクス)がありました。
その一つが、
「一人で勉強してはいけない。チームを作るべし」
でした。

そんな訳で、私の入り込んだ卓は、なんとゆーか「はみだし組み」
でありました。各研究室からぽろりぽろりとこぼれた戦士たち。

試験近くになると、私は殆ど自宅のコタツにはさまっていましたが、
それまでは、卓の皆でラーメン食べたり、おやつ食べたり。
もちろんプチ模試をやったり。そりゃー楽しかったです。
ただし今だからね。当時は死人生活でしたから。

試験は2日間、早稲田大学で、宿泊は近くのホテルでした。
1日目終了後、私の部屋は何故か女友達の集団勉強室に(何故?)
その後、試験の出来なささに
泣きながら魚病学(お魚の病気も試験に出るのです)をするも、
翌日の試験にヤマが大当たり!

試験発表日は、ネットで合格者を確認しようとして、中々表示されず、
イライラしていたところに、卓仲間の友人から電話で合格の知らせを受け
うれし号泣。(現在は合格者名は発表されず、受験番号のみのようです)

そんな1年間。
おかげで当時の流行は空白の1年間です。

女の生き様

中学高校と女子校に通っておりました。
卒業の時には、各自卒業記念として一言残していきます。
私が残したのは、
ワグナーの歌劇ワルキューレのニーベルンゲンの指輪から
娘たちを戦いに送り出す父の言葉でした。

母校は女の世界だった為か、校風のためか、
社会で自立した女性を数多く輩出しているようです。
家庭も教師も躾は厳しかったしね。

何度もドラマ化されている女優さんの生き様や、
オペラ歌手、アナウンサー、バレリーナなど、
それは氷山の一角にすぎないと思います。

自分もそうなってみたいなぁと憧れつつ
まったりぐんにゃり生活の私なのでした。

シュールな子供時代

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 昨日は都合上、殺菌等輝く下でお客さんと小一時間お話をしたため、
日焼けと目が雪目になってしまいました。
胸はシャツのV字に赤くなっております。
その日の夜は冬ソナのように視界の全てが白くかすんで幻想的、と言うほど
優雅ではなく、しくしく痛む目に悲しくないのにナダソウソウでありました。
これではマンガも読めんと思い、久しぶりに音楽を聴きました。

 リパッティは父が好きで家にあったので、よく聴いていました。
ちなみにこの時読んでいたマンガは「のらくろ」。
昭和の代表的漫画家 田河水泡による、軍国漫画(のちに冒険漫画となる)です。
軍隊の階級はこのマンガで覚えました。中国人が豚だったり、土人が出てきたり、
しかも主人公のらくろがそいつらを機関銃で退治しちゃったりと、
かなりなシュールさでありました。

そんなシュールなマンガを物心つく頃には読んでいた私もシュールだよなぁ
と思った夜でした。

ゆりか嬢の学生時代②

 大学時代、1度だけ部活に所属していました。
所属していたのは「馬術部」。当時はバリバリの体育会系部活でした。
男の先輩が威張りまくり、一人称は「私」ではなく「自分」。女子高生活の続いていた私には、
何もかもカルチャーショックでした。
 当然、うまく行くわけがありません。2年生の先輩からはことごとく生意気との評価を受け、
同級生からも理解されませんでした。
朝は4時前に起き大学(厩舎)へ行き、7時前には馬房(馬のお部屋)掃除、合間を見て乗馬の練習。9時前に馬を洗い終わって授業へ。授業終了後は厩舎作業。帰宅は夜。
ということを毎日(土日も休日なし)続けていました。授業なんて熟睡。
夏は夏で馬の餌稼ぎに、集団アルバイトへ。早朝は馬練習、夜は馬学の授業。
学年ごとに留年生が出るのは無理も無かったと思います。
そういった生活の中で、馬と接したり、心から語り合える友人を得て行くことが出来ました。
その時の友人達とは、今でもよい友達です(^p^)。
当時の私はすぐ上の先輩から避けられていましたが、何でかOBの方には気に入られていたのでした。そして今働いている業界に、そのOBの方がいるので、世の中って狭いなと思います。
 この時 肉体的にも精神的にも苦労した経験は今でも十分役に立っていて、就職後 更に受けた困難も、乗り越えられることが出来ました。
 馬は、体の大きさのわりにとても臆病な動物だと知ったのもこの頃です。
この経験を応用して、豚と接する時も相手(豚)が何を考えているのか、念等において管理するようになりました。

結局怪我がもとで1年足らずで退部してしまいましたが、それはそれで次の出会いへと続いていたのでした。(コンビニアルバイト話につづく)

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